未成年者の人権
甲斐素直
問題
A市は,児童・生徒によるインターネットの利用を促進するため,市立のすべての小学校,中学校,高校で児童・生徒がインターネットを使えるようコンピューターを配置するとともに,児童・生徒が教育上ふさわしくないサイトにアクセスすることがないように,コンピューターにフィルタリングを導入し,性的に刺激的な内容,残虐性を助長する内容,自殺を肯定したり奨励する内容など,児童・生徒の健全な発達を阻害するおそれがあると教育委員会が判断したサイトヘの接続ができないようにした。
この措置が提起する憲法上の問題について検討せよ。
平成15年度公務員国家1種法律職試験問題
[はじめに]
本問は、何の予備知識もなく取り組む場合には大変な難問たり得る。幸いなことに、出題時にアナウンスしたとおり、岐阜県青少年保護育成条例事件という名で知られる有名な判例がある(最高裁第3小法廷平成元年9月19日判決=百選[第5版]114頁=以下、「岐阜県事件」という)。念のため、簡単に事実関係を説明すると、岐阜県では、児童・生徒が教育上ふさわしくない図書を読むことがないように、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとし、有害図書と指定された雑誌を自動販売機で販売すること禁じたことが問題となった事件である。
つまり、岐阜県事件における自動販売機をインターネットに、有害図書を有害サイトに、そして知事の指定の代わりに教育委員会によるフィルタリングと言葉を入れ替えて、岐阜県事件をリライトすると、自動的に最低限度の合格答案なら書き上げることが出来る。だから、今回は論文も沢山出て、合格答案が揃うと期待したのだが、どうやらこの判例を読む手間さえ掛けてもらえなかったらしく、今回も惨憺たる結果となっている。
但し、リライトすれば合格答案になると言っても、一点注意を要する。それは、この判例が平成元年時点のものである点である。すなわち、わが国は平成6年に児童の権利条約を批准した。したがって、積極的に児童の権利条約そのものの違憲性を主張するつもりがあればともかく、そうでなければ、今日、未成年者の人権に関する論文は、この条約を前提として議論を展開しなければならない。その意味で、リライトに当たってはこの条約を論点に加味する努力が必要となる。
以下、未成年者の人権について、基本的な考え方を説明し、それを前提に、岐阜県事件と対比しつつ、個々の論点を検討することとしよう。
一 未成年者の人権はなぜ制約可能か
(一) 論文作成にあたっては常にその論文を通じた基本哲学の確立が重要である。それなくして、単に事実をかき集めて羅列したり、個々の論点について、前とは独立していくら詳細に論じたところで論文の体をなすとはいえない。本問の場合、その根本的な問題とは、そもそも未成年者に人権が認められるのか、という点である。そして、認められるとして、その制限はいかなる論理の下に、どの限度で認められるのか、ということになる。
(二) 欧米における考え方は、諸君の論文レベルでは触れる必要はないが、根源的な考え方を整理する上で有用なので、以下に簡単に説明する。
欧米では、主権論の根本において、狭義の国民主権論が主流のわが国と違って、人民主権論が一般に肯定されている。人民主権論は社会契約説を基礎にしているから、社会契約に参加できる能力が、人民となるための要件になる。この結果、人とは人民になる能力を有する者、つまり成人だけを指す。
この結果、かつてパスカルが「子供は人間ではない」と言ったことに端的に表れているように、子供は不完全な人に過ぎず、したがって、欧米では伝統的に子供に権利の主体性を認めることがなかった。そのような考え方の下では、未成年者にどの範囲で権利を認めるかは、国家のパターナリスティックな裁量に服することになる。つまり、その場合には、権利が制限されているのではなく、むしろどの範囲で権利を認めるかが問題となる。そうした発想の下で本問を見れば、本問は児童の権利を制限したのではなく、インターネットへのアクセス権を国が認めた事例と言うことになり、議論はそこで終わる。
(三) この点で興味深いのが、米国における児童の権利についての議論の変化である。米国では、初期においては欧州と同様に児童の権利主体性については否定的であった。しかし、ウォーレン連邦最高裁長官の登場とともに、流れが変わる。ウォーレンは1896年以来、数十年にわたって確立していたSeparete but Equalは合憲とする最高裁判例を破棄し、黒人の平等を確認したブラウン判決(1954年)を皮切りに、警察官に取調べに先立ち被疑者の権利告知を義務づけるいわゆるミランダ警告(1966年)を確立するなど、数多くのリベラルな判決を下したことで知られる、いわゆるウォーレン・コート(Warren Court)と呼ばれる一時代を築いた。
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